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突然+偶然+必然=自然
無事に個展が終わりました。ありがとうございました。作品コンセプトは?と何人かから聞かれました。あえて言葉にするとしたら(突然+偶然+必然=自然)と言ったらどうかと自分では思っています。それは、自分が自分と知ったその時から今に至るまで問い続けている解決不能な疑問(ここはどこーわたしはだれ)につながっています。

 なぜ、自分は自分であって他の誰かではないのか。毎朝、目覚の瞬間いつもおそわれるあの感覚~「また、お前かよ!」これは、超個人的な問題であると同時に、きわめて普遍的な問題でもあるのではないでしょうか。このことは、(3・11以降の美術はどうあるべきか)という問いと正確にシンクロするものであると思われます。誤解を畏れずに言うならば、あの大震災も日常的な小さな出来事もその強度においてなんの差もあろうはずがないという確信があるからです。

 この世に起こる全ての出来事は偶然と必然の綾なす奥深い根底で一つにつながっている!この大胆な憶測は間違っているでしょうか?

 私の作品は、私という深海から浮かび上がった儚い泡の一つぶ一つぶの様なものかも知れませんが、深海そのものは誰とでも一続きにつながっているはずです。

2014年2月11日

物語が生まれるとき
60年代の後半ぐらいだっただろうか、サルトルやカミュそれにサミュエル、ベケットなどの影響からか、<不条理>という言葉がはやっていた。それについて深く考えたこともなかったが、5年ほど前に私に起こった不思議な出来事からあらためてその事を考えざるをえなくなった。

それはいつもの道を夜おそくバイクで帰る途中のことでした。~300メートル程の二輪車以外一方通行の道路なのですが~一台の片方のライトの切れた車とすれちがいました。続けてすぐまたすれちがった車も片方のライトが切れていた。「めずらしいな〜二台続けて片目か!」とつぶやいた時、次に前からやってきた車を見て思わず叫んだ。またしても片目!!心臓がドキッドキッと鳴るのがわかった。

家に着くなりすぐ計算してみた。もし街を走っている車のうち、百台に一台が片切れライトだとしたらそれと三台続けてすれちがう確率は百万分の一!千台に一台だとしたら十億分一!!!!!

いづれにしてもありえない確率だ。いったいあれはなんだったのかと一月ぐらい考え続けた。その答えは単純なものだった。それはありえない出来事なのではなく、日常的なごくあたりまえのできごとなのだということがわかった。それは〈不条理〉という言葉の本当の意味でした。あの3.11の大災害を誰でも人は~なんと不条理なことか~と言う、それと同じように、たとえば電車の中でゆれながらつり革につかまって立っている自分とそのまわりの人々を見まわした時、ああこれはもう二度とおこりえない状況であり一つの事件なのだと思う。

世界の今という瞬間を一刀両断に切断してその断面を横から覗きこんだとしたらそこに見える諸々の出来事は互いに何のつながりも脈絡もなく、一かけらの詩も物語も生まれる余地はない。

我々はこんな世界に投げ出されているのだ。人はその脈絡の無さに耐え切れず、なんとか辻褄を合わせようと必死になって詩や物語をつくるだけなのだ。私のやっている彫刻もそういう物語の一つなのだと思う。

2013年4月


私の中の時間
 今まで、どんな科学者も哲学者も宗教家も「時間とは何か?」と言い当てた者はいるだろうか・・・たぶん「否!」なぜなら私たちの生命は時間の支配下にあり、誰でも時間からは逃れることはできない。時間は常に人間より賢く、人間は愚かであり続ける。時間は叡智そのものであり、不可解。時としてとてつもなく残忍である。要するに人間はこれまでもこれからも永遠に時間に敗北し続けるしかないのだ。 時間とは神のもうひとつの名前であり、神の性格そのものではないだろうか。この世における神の表現を時間と名づけたのではないか…

 「人間は今自分がなにをしているのかを知らない。」これがギリシャ悲劇の底流をなす主音階である。そしてそれは「汝自身を知れ。」と暗に言う。まさに悲劇的にもその事の意味を知るのはいつもある決定的な出来事の後であり、その前には絶対に知りえない。まさに後の祭り!
 ユダはキリストを売ったとき初めて「自分はユダなのだ。」と悟ったにちがいない。ギリシャ悲劇のオイディプスは真実のすべてを知ったとき、自ら両の目を突き刺した。
 わたしたちはわたしたちがしでかした行為の中にその行為をそそのかす制御不能の衝動があることに気がつく…
しかし人間をそのように突き動かす衝動とはいったいどこからやって来るのだろうか。
 
 私の作品を作るという行為はユダやオイディプスのような決定的な行為ではないがやはり行為であることには変わりはない。作品を作る過程とは、私の行為によって今そこに現れたかたち、そのかたちにが私にもたらす違和感、その違和感はいったいどこから来たのか、その原因を追究する事に他ならない。
 多くの違和感は少しの修正で解消する。しかしいくら修正しても違和感が残り続ける時、もっと根本的な改変を必要としてると時間が教えてくれる。・・・さらに違和感が残り続けるとしたら、それは今つくっている作品そのものが作品とし成り立つことはないだろうと時間は長い時間をかけて私に告げる。その言葉は私に有無を言わせない力がある。私はその言葉に従わざるを得ない。そして躊躇なくこわす。・・・さらにさらに根源的な違和感・・・・
時間は私の耳元でささやく「・・・そもそもお前の存在、お前のその在りよう自体が問題なのだ。」と長い沈黙の末に。

 厄介なことに、軽い修正で終わる違和感はすぐにそして強く私にやってくるが、根源的な違和感になればなる程、時間の声は長い沈黙と、聞こえるか聞こえないほどのかすかな声でしかささやいてくれない。  
 出来上がった作品は私の行為の結果であり、そこに現れた形姿は同時に私の形姿であると認めざるを得ない。それを見て私は考える。これでいいのかダメなのか、否定も肯定もできず立ちすくむ。結局、最後に決めてくれるのは私ではなく私の中の時間に違いない。それ以外信頼できるものは何もない。

夢
花が咲いていた。どこからか蝶が一匹ひらひらと花の上に舞い降りた。その時「そうか…花にも下心があるのか。」と夢の中で思った。
夢から醒めて考えた。もし、花に下心がなければ花そのものもないはずだ。いわんや人間をや!!
…昔、木を見て思ったものだ。「木よ。お前は何と静かなのか…」
それは間違っていた。
ものの表面しか見ていなかった。「人間に限らず、すべて存在するものの底の底には意識の光が届かない根源的な意志が有る。」とショーペン・ハウワーも言っていた。
本当だな…

メメント・モリ
もう一度行きたくて、30年ぶりにインドへ行った。 おきまりの観光コースだったが、ガンジス河のほとりのベナレスへ。 ヒンズー教の聖地だ。 人々が沐浴をしている。そのすぐそばの岸辺に煙が見える。火葬場だ。 井桁に組んだ太い薪の上で死体がジクジクと燃えている。怖いものみたさでジッと見つめた。 その日の夜、ホテルのベットの中であの炎の中に横たわっていた人はいったい誰だったんだろうと考えると中々寝付けなかった。 そうしたら突然「カタルシス」という言葉が浮かんだ。 古代ギリシャ人は悲劇を観たときにおこる感情を「カタルシス」と名付けた。 本来は排泄という意味だ。糞尿に限らず、汗、垢、髪の毛、爪に至るまで体の中で不用になったものを外に排泄する。要するにスッキリという気持ちだ。 そう!私の見たものは「死」そのものではない。私の知らない誰かの最後の排泄物だったのだ。そうだとしたら、排泄する主体(Subject)があるはずだ。そうに違いない。

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